2016年の創業時から大切にしてきた「市民性」を問い直し、PIECESのあり方やこれからのひろがりについてお伝えします。

 
 

このページの特集は、2024年2月に行ったオンライントークセッションの内容から抜粋しています。トークセッションの様子は動画でもご覧いただけます。


 

斎: 市民性を考えるとき、「自然さ/不自然さ」「ゆるめる」といったキーワードが浮かび上がってきます。

小野田: 「ゆるめる」でいうと、社会課題などに対して、それを壁として認識した上で、緊張感や使命感を持ってその壁を崩そうとする活動ももちろん重要だけど、ふとした瞬間のゆるみから見えてくる横の繋がりや壁の向こう側にいる人たちへの想像力、あるいは壁の実存性自体を疑ったり、そもそも壁を崩さずに迂回する方法にみんなで気付く、ということも市民性には含まれているのかなと思います。

荻原: 市民性は目に見えた行動や物理的なものではなく、人と人やチームの中の間にある概念であり、バッファ(ゆとり)のようなものだと捉えています。

斎: 市民性は意図して発揮するものではなく、自分を通して”生まれてしまうもの”だと思います。たとえば、通勤ラッシュの時間帯にバス停であった印象的な出来事があります。満員で来たバスを待つ人の中に、ベビーカーに乗った赤ちゃんとお母さんがいました。その時、バスから男性が数名降り、親子にバスを譲りました。降りる予定ではなかったであろう男性たちは、何か良いことをしようとしたのではなく、とっさに動いていたように見えました。譲ってもらったお母さんは「ここにいて大丈夫」という感覚やまちの人たちへの小さな信頼感を抱いたように思います。

現代社会では、社会にいいこと、地域にいいことを意図的につくり過ぎていたり、力が入りすぎているのではないかと感じることがあります。日常の中にすでにある優しさやまなざし、自然と出たふるまいなどをみつめることから始めてみるといいのかもしれません。

小澤: 自分の心や身体が自ずと応答することに、市民性は宿っていると思います。それは支援する・されるではなく、暮らしの中で開きあって、互いに交わされあって、立ち上がっていくものだという気がします。

小野田: 自然と不自然は人それぞれに違うものであり、その人にとっての生きやすさから生まれていくふるまいが、その人にとっての自然なのかなと思います。そんな自然をかき乱すものが世の中には多くあり、それによって普段の自分と違う行動をしてしまうことが不自然な状態といえるのではないか。本来取りたかった行動の積み重ねが、やがてその人の自然な行動になり、その行動は誰かが見て、感じて、応答している。自分の行動や想いは誰かの一部になっているし、同時に誰かの行動や想いは自分の一部になっている。それこそが市民性であり、そういったつながりの中にいるということに気付くことが大切だと思います。

斎: 自分の中の居心地の悪い感覚や不自然さを取り除くことで、本来の自然な自分のふるまいを取り戻すことができるのかもしれないですね。

荻原: みなさんの話から、市民性は周囲や他者の存在に対して、自分の価値観で反応するのではなく、敬意や想像力を持って、自ずと自分にできることを無作為にふるまうスタンスやたたずまいのことなのかなと思っています。


 

小澤: PIECESでは「ひらかれたWE」という言葉を使っていますが、自分の中にまだ見えていない存在や営みがあり、それに出会ったとき、自分の存在がどんどん広がっていく感覚があります。そんな存在に気が付けば気が付くほど、世界や目の前で起こっていることを見なかったことにはできなくなります。誰かに起こっていることは自分のことでもあり、それは時に苦しさや痛みも伴うけど、時に豊かさにもつながります。する・されるではなく、「自分たちのこと」として一緒に考えるということを大事にしていきたいです。

荻原: 「ひらかれたWE」と聞いたとき、当事者性や当事者概念を拡張するということが、市民性につながるのかなと感じました。

小野田: 拡張されるほど、自分の影響と他者からの影響が切り分けられなくなっていきます。市民性を大事にするPIECESの活動は、目的的だったり、視野が狭くなりがちな社会課題の領域において、ひらかれた感覚を持つ人たちを増やすことにもつながるのではないでしょうか。ビジネスの世界で用いられる指標では社会への影響という面も含めて数値的なインパクトばかりが見られますが、数値の多寡では拾えない、関わる個人が変容していく、視野が広がっていくということも私自身で社会を創っていくという領域においては一つの重要な成果のように思います。

斎: 子ども支援の領域でいうと「居場所づくり」などの「doing(何をするか)」にエネルギーが集まりやすいです。もちろんそれらは尊い活動なのですが、そこにまなざしや自分のあり方「being(どうあるか)」の視点がないと歪みが起きていくと感じます。

市民性は「みんなに優しくしよう」と捉えられることがありますが、それとはまた違います。「自分がしたい」、「気になるからする」ということは時に相手の尊厳を傷つけるかもしれないと自覚することも大切です。そのためにPIECESの活動ではリフレクション(内省・省察)を大切にしています。


 

小野田: 何をすべきかという「doing」は分かりやすいけど、私はどうあるべきかという「being」は分かりづらいですよね。でも市民性という補助線によって、各々が各々の場所でどうあるべきかという「being」に気付ける世界をつくり続けていけるような気がします。ただ、「being」でいることはどこにも依存しない、いわば裸の自分を受け入れる段階を経る必要があって、その怖さや不安さのセーフティーネットの一つになり得るものが市民性なのかもしれません。

斎: PIECESがなぜ市民性を照らし続けるのかというと、人と人が影響し合うことによって何倍にも広がっていく希望を感じているからです。例えばCforCプログラムでは市民が集まり、対話や内省などを通じてともに歩む中で、参加者同士が響き合い市民性が生まれていきます。人は一人で市民性を獲得するのではなく、関わり合いによって少しずつ帯びてくる。その可能性をもっと共有したいです。

小野田: 人と人の間にある「間(ま)」の重要性は、これからもっと重要になっていくと思います。その「間」を搾取的あるいは加害的な社会構造や権力から守ることを意識する必要があると思っていて、だからこそPIECESの活動に希望を感じています。もともと「市民性」というワーディングもその辺りを意識したものだという認識です。

小澤: 市民性がすでにあることに目を向けることが大切です。誰もの中にある市民性が交わされあっていくことが、社会の土壌の豊かさにつながり、そして社会の流れをつくっているのは私たちだという気付きにつながります。

荻原: 市民性は断定的に定義できるものではなく、考え続けるものです。PIECESの活動は豊かな土壌づくり。目に見える分かりやすい行動や分かりやすいヒーロー、アウトプットが重視される世界に私たちは生きていますが、一人ひとりに宿ったふるまいやたたずまい、まなざしといった市民性が土壌になり、温かさになり、それが可能性を広げていくのだと思います。